玄宮楽々園 |
伝統構法について, 文化価値としての建築 |
文化9年(1812年) 今からおよそ200年前の建物。
もともとは、江戸時代初期、延宝5(1677)年、彦根藩 四代藩主 井伊 直興により建立されたもの。
大書院、地震の間、雷の間、楽々の間など、工夫を凝らした部屋が残っています。
ちなみ十五代藩主は、桜田門外で暗殺された幕末の大老、井伊直弼。
明治維新後、導入された西洋の建築手法にのっとったものが、大きな震災に合う度に改正を繰り返す、現代の住宅建築の基準法の基礎となっています。幕末の志士たちは、今の時代をなんと見ているのでしょうか。
明治以前には、大きな震災を経てなお、今もりっぱに建ちづづけている建物がたーくさんあり、それらは、僕の大切な教科書でもあります。
土台を敷き、柱頭と柱脚を板状の足固めと、桁固めで組んだ構造。
最初見たとき、このような繊細な方法を、200年も前の大工さんは、やっていたのかと驚きました。
足固めと桁固めで、柱をS字にしならせる。この基本を、このような細い部材で完成させたものは、初めて見ました。差し鴨居も細く、きわめて繊細なバランス感覚で成立させている建物といえます。
タイムマシンがあったらぜひ一度、この棟梁にお会いして、お話をお聞きしてみたいものです。
追記
上記の柱と土台の接合関係を計算してみました。
柱 4.5分角 より IC=13.5×13.5の3乗÷12=2767.92...㎝の4乗
足固め 3寸5分×1尺1寸 より IB=10.5×33.3の3乗÷12=32310.28...㎝の4乗
よって IB=11.67IC
大丈夫なわけだ。